歳を重ねても元気な方はどんなお考えをもっているのか

私のまわりには歳を重ねても元気な方がいらっしゃいます。そのひとり、M先生は、81歳になられて、とても元気です。上場企業の社外取締役や社会福祉法人の幹部育成にも現役で関わっておられます。M先生は、私の釣りの師匠であり、株、経営学、人生、色々と教わっています。その師匠が最近、友達に向けて書かれた手紙を見せてくれました。とても感動する内容でした。許可を頂いてその内容をご紹介いたします。

Sとは歌舞伎仲間でした。学生時代の後輩でした。今年の2月22日に歌舞伎座の前で待ち合わせをしていました。約束の当日、彼は現れませんでした。電話やメールしても通じない。几帳面な彼には考えられないことでした。今日、彼のお兄さんから連絡があり、彼が亡くなっていることを知りました。孤独死でした。死後2週間を経過していました。

このようなケースは全国いたるところで起きています。先日、NHKで「無縁社会」を放映していました。孤独な高齢者の生活を映しだしたものでした。2010年では、孤独死が年間32000人です。今後、さらに増えていきます。生涯未婚者は3割にも上ると言われています。孤独死の予備軍です。孤独死が生じる社会を「無縁社会」と呼びます。

孤独死のように縁が完全に切れて亡くなるわけではないが、縁が薄くなって淋しく亡くなる社会もあります。それを「薄縁社会」と呼びたい。

どんなに恵まれた環境であっても、誰でも、いつか、一人になります。年をとると、心も体も弱り、一人で生きていくことが困難になります。昔は家族の絆が強かったし、地域社会との結びつきが強かったので、誰かが近くにいました。

今では、高齢になると施設に入ることが当たり前になりました。ひとたび、施設に入ると戻れなくなります。家族の面会も減り、孤独になり、そこで亡くなります。施設が終の棲家になっています。なぜ、そういう時代になったのか。家族で介護することができなくなったからです。

施設に入ると、入所者は金になる商品になります。質の悪いケアマネジャーは自分の所属施設に入所を誘導し、利用者を囲い込みます。いったん、手に入った商品は手放しません。一方、家族の方も呼び戻すことはしません。折角、手にした安楽な時間を手放したくないからです。面会の回数もだんだん減っていきます。地域との縁は入所と同時に切れます。これが薄縁社会です。年をとるということは、死ぬことより難しいことなのです。

家族にも友人にも恵まれているので、無縁社会や薄縁社会とは関係ないという人もいます。そういう恵まれた人にも避けられない関門が待っています。80歳を超えると、男には三つの関門があります。83歳、85歳、87歳の関門です。その中でも、最も危険な関門は83歳です。ここで大部分が躓きます。83歳までに70%が亡くなります。仲間からは「え、亡くなったの」と早すぎた死をおしむ声がおきます。次の関門は85歳です。80%の人が亡くなります。「あいつも、亡くなったのか」と諦めに近い声がおきます。その次は87歳です。87歳では90%の人が亡くなります。ここまでくると、仲間同士の声も聞こえなくなります。施設に入っている人もいれば、認知症になっている者もいて、仲間の消息は知らされません。ちなみに、83歳では井上靖、高倉健、ペギー葉山、堺屋太一、85歳では水上勉、川口松太郎、87歳では昭和天皇、柳田国夫などが亡くなっています。 

関門など考えたくないので、日頃は考えないようにしています。しかし、80歳を過ぎた人は、関門はすぐ目の前に来ています。三つの関門をどうやって迎えるのか、本気で考えなければなりません。

人生には四苦があるといわれます。「生、老、病、死」です。生は偶然ですが「老、病、死」は必然です。「死」については結論が出ていません。死後どんな世界があるのか誰もわかりません。死を経験した者はいないし、証明しようがありません。「生」は過去形ですので考える必要はありません。そうすれば、現実の生活を営む上で、考えなければならないのは「老と病」です。

「老」や「病」は誰にも平等に訪れます。遅いか早いかの違いがあるだけです。「老」とは「病」とほとんど隣り合わせです。「老」と「生」の間に入るものがあります。これが問題なのです。それが「孤独」です。無縁社会、薄縁社会に共通しているのが「孤独」です。高齢者の仕事は「孤独」に耐えることだという人もいます。しかし、無為に耐えるから「孤独」はストレスを生みます。ストレスは老化を早めます。ガンなどの病気を引き起こすのも「孤独」です。認知症は「孤独」な人に多いといわれます。では「孤独」を避ける方法はないのだろうか。「孤独」は避けられません。そうだとすれば「孤独」に耐えるのではなく、「孤独」に馴染むしかありません。「孤独」を楽しもうという本もありますが、人はそこまで強くありません。普通の人が「孤独」に対して採りうる手段は、孤独者同士が協働して「孤独」の中で、ささやかな喜びを育て上げることです。

高齢者の課題は「何を残すかではなく、何をするか」です。80歳にもなれば、もう人や社会のために大きなことはできません。小さいことでもいい。例えば、挨拶を交わすのはどうでしょうか。人に会ったら笑顔で挨拶をする。私は、今も講道館に通っています。80歳もなれば柔道が強くなることはありません。講道館に入ると、ほっとするのです。日本の中で講道館ほど挨拶が温かいところはありません。稽古前の相手に対する挨拶は当然、道場内での挨拶や館内で行き交う時も挨拶を交わします。段位に関係なく、高齢者から少年へ、少年から高齢者へ、性別や国籍に関係なく自然と挨拶を交わします。それが温かいのです。登山道では行き交う人が互いに挨拶を交わします。疲れが吹き飛びます。駅など公衆トイレの清掃をしている人に会ったら、「お疲れ様」と挨拶をすると、必ず返事が返ってきます。その日はお互いに嬉しいのです。家族や身近な人にも時には、一言『ありがとう』と感謝の気持ちを述べるのもいいと思います。友人とは、ときどき連絡し合う。『どぎゃんしよったとね』と思わず、田舎訛りが飛び出してきます。今、君の声を待っていたと言わんばかり勢いです。

「自分が喜ぶことより人が喜ぶことをした方がより脳が喜ぶ」と言います(茂木健一郎)。

挨拶すると相手の脳が喜びますが、相手から笑顔をもらうことで、それ以上に自分の脳は喜びます。このような挨拶関係が広がれば、地域社会が明るくなります。個人にとっては、脳が喜ぶことが健康の秘訣になります。幸せとは脳が喜ぶ状態だと言えます。

毎日毎日を感謝しながら、脳が喜ぶことをして生きる。そのようにして三つの関門を一つずつ乗り越えていく。その間、病気になれば、病気と折り合いをつけて、うまく付き合う。死の迎えが来たら天命だと悟り、死を受け入れる。そんな生き方もいいなと思います。 2019年2月24日 M先生 

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